1. 深刻な人手不足と賃上げ競争の現状

最近のテレビニュースやネット記事でよく目にする「新卒初任給引き上げ」。新卒の初任給が30万円を超える企業も珍しくなくなっています。

近年、日本では多くの業種・地域で人手不足が常態化しており、特に中小企業やサービス業、医療・介護、運輸、建設などで顕著です。求人数が求職者数を大きく上回る「売り手市場」が続く中、企業同士の人材獲得競争が激化し、その結果として賃金水準を引き上げざるを得ない状況、いわゆる「賃上げ競争」が広がっています。

「賃上げ競争」という言葉は労働者にとって魅力的に聞こえますが、すべての企業が簡単に対応できるものではありません。特に中小企業では、賃金を引き上げたくても財源に限りがあり、大手企業と同じ条件で競争することは困難です。

かつては「景気が悪いから賃上げできない」「同業他社も上げていない」といった理由で現状維持を図る企業も少なくありませんでした。しかし現在は、賃金水準が低い企業から人材が流出し、求人を出しても応募が集まらない・採用できないという、経営に直結する問題となっています。

そのため、賃上げを行わなければ事業の継続が難しくなる企業も増えています。

2. 人手不足・賃上げ競争が起きている背景

(1) 少子高齢化と生産年齢人口の減少

日本の生産年齢人口は年々減少傾向にあり、今後も減少が続く見通しです。若年層の新規労働力の供給が減り、その分を高齢者の労働参加や女性の就業率上昇で一定程度補っているものの、根本的な人手不足の解消には繋がっていません。

(2) 需要構造の変化とサービスニーズの拡大

高齢化の進展により医療・介護ニーズが拡大し、同分野での人材需要は大きく伸びています。一方で、IT・DX、物流・Eコマース、観光・インバウンドなど成長分野でも人材需要が急増しており、限られた労働力を複数の成長分野で奪い合っている状況になっています。

(3) コロナ禍後の需給ギャップとミスマッチ

コロナ禍で一時的に需要が落ち込んだ業種(飲食、宿泊、対面サービスなど)では、人員調整や離職が進みました。その後、需要回復が進む中で、コロナ期に離職した人材が戻らず、別業種にシフトしたことにより、特定分野での人手不足が一層深刻化しています。

また、多様化による求職者側の働き方ニーズ(ワークライフバランス、リモートワーク希望、勤務地の制約など)と、企業側の求める勤務条件が一致せず、人材がいても働き方のミスマッチが解消しないという問題もあります。

(4) 長時間労働規制・同一労働同一賃金など制度面の変化

働き方改革により、時間外労働の上限規制(36協定を締結しても月45時間・年360時間が原則、特別条項付きでも年720時間など)、月60時間超残業の5割増賃金の中小企業への適用、年5日の年休取得義務、労働時間の客観的把握義務などが導入されました。また、「同一労働同一賃金」の導入により、非正規と正社員の不合理な待遇差の解消が求められ、パート・有期、派遣を含めた処遇改善が進んでいます。

これらの制度改正は本来望ましい方向性ではあるものの、長時間労働を前提に最小限の人員で人件費を抑えてきた従来の企業では事業運営が難しくなり、その結果、人員確保のために一人当たり賃金の引き上げが求められる状況となっています。

(5) 物価上昇と生活防衛としての賃上げ要求

近年は賃上げ競争と共に物価も上昇しており、実質賃金の低下に対する危機感が高まっています。労働者側の生活が成り立たないという実感が、転職や副業、待遇改善要求の背景となっており、企業側も賃金水準を意識せざるを得ない状況です。

3. 企業側の典型的な対応・対策

賃上げ競争に対し、企業は単純なベースアップだけでなく、さまざまな手段を組み合わせて人材確保・定着を図っています。

(1) 賃金水準・手当の見直し

  • 基本給・時給の引上げ
  • 職種別・地域別の市場調査を踏まえた賃金テーブル構築
  • 特定職種(看護師、介護職、エンジニア、ドライバーなど)の「職務給」「専門職手当」の導入
  • 採用時の入社祝い金、一時金の支給
  • 住宅手当・通勤手当・資格手当など諸手当の拡充

特にアルバイト・パートについては、求人媒体での時給表示が採用成否を大きく左右するため、最低賃金ではなく、同業他社と比較してより高い水準での時給設定が行われる傾向があります。

(2) 非正規から正社員化・無期転換の推進

非正規人材の囲い込み・定着のため、有期雇用労働者・短時間労働者・派遣労働者を正社員化する次のような動きが求められます。

  • 同業他社より好待遇の条件提示
  • 同一労働同一賃金対応としての待遇差是正
  • キャリアパスの明確化によるモチベーション向上

こうした正社員化や労働条件の見直しを行う場合には、キャリアアップ助成金(正社員化コース・賃金規定等改定コース等)を活用する方法もありますが、手続が煩雑であり、法令遵守や、賃金台帳・出勤簿といった帳票の整備をしておく必要があります。

(3) 働き方・労働時間の見直し

賃金だけではなく、「働きやすさ」「柔軟な働き方」も採用・定着における主要な要素となっています。具体的には、

  • フレックスタイム制の導入
  • 変形労働時間制の活用による繁閑対応
  • シフトの柔軟化、希望休制度の充実
  • 時短勤務や週4日勤務など、多様な正社員制度
  • リモートワーク・在宅勤務の導入
  • 勤務間インターバル制度の導入

これらは、人手不足による負担の増加を抑えながら、応募者への魅力を高める制度といえます。

(4) 生産性向上・業務効率化による「原資の捻出」

賃上げを継続的・構造的に行うためには、生産性向上による原資の確保が不可欠です。

  • 業務プロセスの見直し(ムダな会議・紙業務の削減、ITツール導入)
  • 標準化・マニュアル整備による属人化の解消
  • DX・自動化投資(RPA、クラウドシステム、AI活用など)
  • 取引慣行の見直し(短納期・頻繁な仕様変更への是正要請等)

これにより「従来と同じ売上・付加価値を、より少ない工数で生み出す」ことが可能となれば、賃上げを行っても利益率を維持・改善できる余地が広がります。

(5) 採用媒体の多様化・人材確保の拡大

賃上げのみならず、次のような採用戦略の見直しも有効な手段です。

  • 高年齢者の継続雇用やシニア採用の拡大
  • 育児・介護と両立する女性人材への柔軟な就業機会の提供
  • 外国人材の活用(特定技能・技能実習・高度人材など)
  • インターンシップ・リファラル採用・副業人材の活用

4. 企業が留意すべきポイント

人手不足を背景にした賃上げ競争に対応するにあたり、労務管理担当者として押さえておきたいポイントがあります。

(1) 労働条件全体のバランス設計

賃金水準を考えるだけでなく、

  • 労働時間(上限規制、36協定)
  • 年休取得(年5日の時季指定義務)
  • 割増賃金(60時間超5割増の中小企業適用)
  • 同一労働同一賃金への対応

といった法的要件との整合を図りながら、人件費総額や人員配置を設計する必要があります。賃上げを行う場合でも、残業削減やシフト最適化によって総労働時間を抑えるなど、トータルのコストを見据えた検討が求められます。

(2) 就業規則・賃金規程の整備と説明

採用強化のために給与体系・手当・評価制度などを急ぎ変更するケースも増えていますが、以下を欠くと、社内の不満やトラブルが発展する可能性があります。

  • 就業規則・賃金規程への明文化
  • 労働条件通知書への反映
  • 既存従業員への丁寧な説明

特に、同じ職務に従事する従業員間で賃金差が生じる場合には、その合理的理由(経験・能力・貢献度・職務内容など)を説明できるよう整理しておくことが重要です。

(3) 賃上げの「一時的対応」と「構造的対応」の区別

目先の採用難をしのぐための一時的な手当や入社祝い金と、ベースアップ・職務給導入などの恒久的賃上げでは、企業への負担が大きく異なります。そのため、

  • 恒久費用(基本給・等級テーブル)の増額
  • 一時金(採用・定着支援のための限定的な手当)

を区別し、会社の将来のコストを試算したうえで、賃金制度をどうするか決めることが大切です。

(4) 助成金・支援策の情報収集

国や自治体では、処遇改善・人材確保・働き方改革・人材育成等に関する各種助成金・補助金を用意しています。中でも、賃上げや処遇改善による人材定着を図る企業にとっては、次のような制度が活用しやすいです。

  • キャリアアップ助成金
  • 人材確保等支援助成金

ただし、これらの助成金を利用するには、いくつかの前提条件を満たしておく必要があります。

  • 雇用保険適用事業所であること
  • 就業規則・雇用契約書・出勤簿・賃金台帳などの帳票整備
  • 労働関係法令違反がないこと

さらに、申請には期限があり、手続きも複雑なため注意が必要です。確実に活用するためには、事前の情報収集と準備が重要になります。

5. まとめ

人手不足を背景とした賃上げ競争は、少子高齢化や業界構造の変化に加え、働き方改革関連法や同一労働同一賃金といった制度改革、さらには物価上昇による生活不安など、複数の要因が重なって生じている動きです。

企業としては、賃金や処遇体系の抜本的な見直しに加え、働き方や業務プロセスの改革、生産性向上による原資の確保、そして法令遵守や就業規則の整備を進めていくことが、長期的な事業運営のために重要になっています。

一方で、中小企業にとっては、原資や人材の制約から、賃上げや制度改革を実現すること自体が容易ではないという現実もあります。

そのため今後は、「賃上げ」「生産性向上」「働き方改革」をいかに両立させるかが、大きな課題となっていきます。

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